親日国パラオと日本・魂の友好(日本・徳の遺産)
日本が世界中から愛される秘話 - 2011年04月27日 (水)

foto:parao

書こうとして、
その都度、涙があふれ書けなかった先人の徳の遺産。
亜細亜に於ける話しは、特にそうです。
この先人達の高い精神による徳の遺産によって、
今生きている我々が受ける世界からの恩恵の大きさは
はかりしれません。
今、先人達の事を知る大切な時期だと思います。
そこで
すでに本になっている事でも、また他ブログでも
取り上げている事もあり、今回当ブログでは、
転載にて取り上げる事にします。
(止めど流れる涙が・・・申し訳ありませんm(__)m)




【愛する祖国日本を守るため!愛する人々を守るため!
祖国を思う強い心根と壮絶な戦いと玉砕に込められた大和魂】
昭和19年、第二次戦争末期、パラオ諸島のペリリュー島で
日米の戦いが始まった。
米軍は、圧倒的な軍事力と兵力によって数日で決着をつけるつもりだった。
しかし・・・
※転載開始※
当時、日本軍はフィリピンを防衛するために、その島に東洋最大といわれる飛行場を建設していました。ペリリュー島は日本にとって、いわばフィリピン防衛の防波堤であったのです。昭和十九年になると、米軍は対日包囲網を圧縮してきました。米陸軍を指揮するマッカーサーにとって、フィリピンを攻略するためには、フィリピンの背後に位置するペリリュー島を奪取しなければ、戦況を有利に進めることはできませんでした。そこで、米太平洋艦隊を指揮するニミッツ提督は、マッカーサーの作戦を助けるために、第一海兵師団〈師団長、ウィリアム・H・リュバータス少将)にペリリュー島の占領を命令しました。さらに、勇名を以て鳴るハルゼー大将が指揮する第三艦隊約八百隻の艦艇が、海兵隊支援のために差し向けられました。
※追記1 米軍は日本軍の兵力の14倍、航空機200倍以上、戦車100倍、重火砲1000倍の軍備力でした。
これに対するペリリュー島を守備する日本軍は、水戸の第十四師団座下の歩兵第二聯隊を主力とした地区隊(隊長・中川州男(くにを)大佐)一万二千名。これまで太平洋の島々が攻撃された時、日本軍の持久期間が短かく次々玉砕しました。それは「水際撃退」を至上の戦法にしてきたからでもあります。その戦訓をいかし、ペリリューでは、内部に深く洞窟を構築して待機していました。
既に制海権・制空権を手にしている米軍は、狭い小島に文字通り絨毯(じゅうたん)爆撃と艦砲射撃を加え、九月十五日、航空母艦を含む機
動部隊を背景に、上陸作戦を敢行してきました。総兵力四万二千。それに対して、我が方は、二度までも上陸を阻止するほど勇戦しました。しかし衆寡敵せず、上陸を許してからは、予定通り五百の洞窟にこもって、持久戦に移りました。連日連夜、彼我肉迫する戦闘が続きました。我軍は弾丸や食糧の補給が続かなく、死傷者が続出しました。しかし七十三日間を持ちこたえ、健在者は僅か五十数名に減ってしまいました。
そして十一月二十二日、中川隊長は、パラオ地区集団参謀長多田督知大佐宛、訣別の電報を打ちました。その一節ーーー。
三、地区隊ハ本二十四日以降、統一アル戦闘ヲ打切リ、残ル健在者約五十名ヲ以テ遊撃戦闘ニ移行、飽ク迄持久ニ徹シ米奴撃滅ニ邁進セシム。重軽傷者中戦闘行動不能ナルモノハ自決セシム。
四、将兵一同聖寿ノ万歳ヲ三唱、皇運ノ弥栄ヲ祈念シ奉ル。集団ノ益々ノ発展ヲ祈ル。
二十四日、いよいよ全軍玉砕の時が迫りました。中川大佐、そして第十四師団から派遣されていた村井権治郎少将、飯田義栄中佐の三人は、それぞれ古式に則って割腹自決。三人のあっぱれな最期に続けと、最後の決死隊が組織されました。根本甲子郎大尉以下、傷だらけの五十五名は、夜鬼のごとくになって突撃してゆきました。米海兵隊公刊戦史によれば、「日本の斬込隊の一団は、米軍の包囲圏を突破できず、二十四日の夜から二十七日七時頃までの間に米軍と激しく交戦、全員玉砕した」とあります。そして、軍旗も機密書類も焼却したことを意味する最後の電文「サクラ・サクラ」が、パラオ本部に届いたのは、二十四日の十六時でした。この六文字の電文は、ペリリュー守備隊全員が、桜花のごとく散ったことを意味するのです。
それは、一万人の死をもって謳いあげた世界で最も短かく簡潔な詩といえましょう。これ以上に余韻をもった傑作は、他に例を見ないのではありますまいか〈中川大佐は戦死して二階級特進、中将となる。墓は郷里熊本県にある)。

中川州男陸軍大佐
オレンジ・ビーチのいわれ
我が軍としては、二十四日をもってペリリュー島は玉砕したものと確認していました。ところが、中川隊長の最期や命令を知るすべもなかった西海岸守備隊は、その後も抵抗を続けました。米軍から武器弾薬はもとより食糧衣類を奪い、神出鬼没のゲリラ戦を続けていました。山口永少尉以下、陸海軍の生き残り兵三十四名。それも敗戦後の昭和二十二年四月二十二日まで、彼らはおよそ二年半にわたって戦闘を続行したのでした。
この生き残り兵の大半は、最初米軍が西海岸に上陸した時、最も果敢に戦った勇者たちでした。米軍は占領後、激戦の行われた西海岸をオレンジ・ビーチと名づけました。それは、アメリカ兵の血で美しい珊瑚の海面がオレンジ色に染まったからだ、といいます。現在「オレンジ・ビーチ」は、ペリリュー島の正式名になっております。
ニミッツ提督はその著『太平洋海戦史』(重松譲・富永謙吾共訳〉の中で、ペリリュー島の戦闘に相当のページをさき、次のように結んでいます。
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約四〇パーセント〉を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」
ここで特筆しておかねばならないことがあります。
ペリリュー島には、それまで現地住民が住んでいました。
島民は白人の統治と日本時代を身をもって経験しているので、大人も子供も、日本軍と一緒に戦う決意を持っていました。しかし日本軍としては、住民を戦火に巻き込んではならないという配慮から、船舶の乏しい中、空襲を避けつつ夜間を利用して全員をパラオ本島に退避させました。
※追記2
壮絶で長い戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、
このペリリュー島の「民間人」には、
「ただの1人も犠牲者が出なかった」のです。
遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。
「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに…みせかけだったのか。
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…。
船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。
この誠意が通じたのか、
戦いが終って帰島した彼らは、日本人の遺体を見て泣きました。
「アメリカ人は、日本人の遺体には見向きもせず、
自国兵の遺体だけを整理した。
ここに、征服民族の本性を見る」として、
島民はこぞって日本軍の遺体を葬りました。
日本の人達がいつ来てもよいようにと、
その後も墓地の清掃に心掛けました。
現在も島民の親日感情は極めて強く、沖山豊美(やまとよみ)という日本名を持つ女史は、日本統治時代をなつかしみ、「愛国行進曲」を間違わずに歌ってみせ日本人と見れば、
「日本という国は何千年来の伝統を持ち、独自の文化を創りあげてきた。その結晶が天皇と教育勅語だ」という趣旨を、熱っぼく語り、日本人の度胆を抜くそうです。
さらに彼らは、ペリリューを守って玉砕した一万人余の英霊を決して忘れていません。
日本から遺骨収拾に行くと、
「戦死者は母なる大地ペリリューに抱かれているのだ。収拾などしないで、静かに眠らせてほしい」と言うそうです。
現在、島の中央部に近い「島民墓地」の一角に、高さ約四メートルの「みたま碑」(三角錐型)が建っています。それを中心に、日本の各団体によって三十数基の慰霊碑が肩を寄せあうように建立されました。
そして昭和五十七年五月には、「青年神職南洋群島慰霊巡拝団」(清流社会長・滑川 裕二(なめかわゆうじ)氏主催)二十名が、船坂弘(ふなさかひろし)氏の助力を得て、ペリリュー神社を創建しました。すべて日本から運搬した材料を使い、島民の多大の協力を得て、十日間を費して完成しました。御祭神は天照大神と戦死者一万余名の「護国の英霊」です。現在、神社前の左の掲示板には、ペリリュー島のイサオ・シゲオ尊長(そんちょう)によってこの趣旨が書かれています。そして右の掲示板には、戦闘の経過が要約され、米国公刊戦史に載っているとして、次の詩的な一文で結ばれています
「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……」
この詩は、戦終ればかつて敵であった日本軍の忠勇武烈ぶりを、このように讃えております。そしてこの島を訪れる旅人に、その勇戦ぶりを伝えてくれ、と戦死者に代って願っているのです。
私はこの印象的な英文を確認したいと思って、『米公刊戦史・海兵隊史』を捜して貰いましたが、見つかりません。ニミッツの『太平洋海戦史』にも、載っておりません。この文章は一種の詩だから、戦史としては、ふさわしくないとも言えます。それでは、どこに載っているのか。
文献あさりをしていた時、浦茂氏(元・航空幕僚長〉から教えられました。浦氏が昭和五十九年に渡米し、ニミッツの資料を求めて、アナポリス海軍兵学校を訪れました。その時、教官からニミッツの詩として教えられた英文は、次のようなものでした。
Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.


ニミッツ提督と讃えた石碑

【ペリリュー島に散った桜勇士たちへ讃える詩】
大東亜戦争終結後、それまで日本の領土であった、パラオ・グアム・サイパンなど、南洋の島々はアメリカの統治領となり、パラオでは1981年に憲法を制定、1994年にパラオは米国より独立し、国連に加盟しました。
最後に島民の登場を願いましょう。
昭和五十六年一月、パラオ共和国が誕生した時、日の丸をデザイン化した国旗を制定したことは、前章で触れました。それと共に、独立を記念して、ペリリュー島守備隊を讃える歌も作りました。全文が船坂弘著『血風ペリリュー島』の「はしがき」の末尾に載っているので、ここに紹介します。作詩者はペリリュー島のオキヤマ・トヨミ、ショージ・シゲオの両氏。題は「ペ島の桜を讃える歌」です。
ペリリュー兵士とは「日本兵を意味」しており、題して「ペ島の桜を讃える歌」と言います。
「ペ島の桜を讃える歌」
一
激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
つわもの
強兵たちはみな散って
ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる
二
小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない
三
将兵(ヘいし)は”桜”を叫ぴつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの”桜"に意味深し
四
日本の”桜"は春いちど
見事に咲いて明日(あす)は散る
ペ島(じま)の”桜"は散り散りに
玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に
五
今守備勇士(もののふ)の姿なく
残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島(じま)の習慣で
我等勇士の霊魂(たま)守る
六
平和と自由の尊さを
身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし"桜花"
今では平和が甦る
七
どうぞ再びペリリューヘ
時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗(わび)し
あつい涙がこみあげる
八
戦友遺族の皆さまに
永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを
ペリリュー島の玉砕戦を、日本の国花・桜に託し、見事に謳いあげた歌詞です。ペ島の勇者を弔う歌として、これ以上のものは作れないのではないか。守備隊員は、サクラ・サクラという最後の電文を打って、文字通り集団の桜花のように散っていったのです。島民からこのように讃えられて、一万の英霊も、もって冥することができるのではないか。 一
激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
つわもの
強兵たちはみな散って
ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる
二
小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない
三
将兵(ヘいし)は”桜”を叫ぴつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの”桜"に意味深し
四
日本の”桜"は春いちど
見事に咲いて明日(あす)は散る
ペ島(じま)の”桜"は散り散りに
玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に
五
今守備勇士(もののふ)の姿なく
残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島(じま)の習慣で
我等勇士の霊魂(たま)守る
六
平和と自由の尊さを
身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし"桜花"
今では平和が甦る
七
どうぞ再びペリリューヘ
時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗(わび)し
あつい涙がこみあげる
八
戦友遺族の皆さまに
永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを
私は深い感動に襲われながらも、桜を見たことのない島民が、日本語を使って、よくぞここまで作れたものだ。ひょっとしたら、著者の船坂さんが相当補作されたのではないかー―ー失礼ながらそんな疑問が湧いてきました。この疑問を率直に、著者に投げかけてみました。船坂さんの答は次のようなものでした。
「たしかに、ペリリュー島には桜はない。島民は殆んど桜を見たことがない。しかし、彼らは戦前日本の教育を受けている。それだけに、日本人よりも美しい桜ヘのイメージがある。それに彼らは、戦争直後、倒れた多数の軍人の遺体を葬り、今でも毎日一万の英霊と共に生活しているのだ。歌詞にあるように、ペ島はすべて墓地なのだ。それだけに、日本人以上の気持がこの歌詞となって結晶したと思うのだ。それを汲みとってほしい」
この歌は同時に作曲もされました。作曲者は同島小学校副校長、ウィンティ氏。彼らは今もこの歌を愛唱しているそうです。
パラオがアメリカから独立した際に、独立にあたって定められた「国旗」は、
一般国民から公募した70数点の中で、
「青い太平洋に浮かぶ、黄色い月」が一番人気であり、現在の国旗となりました。
パラオでは、この国旗について伝えられるエピソードがあります。
「太陽(日本)」があってこそ「月(パラオ)の輝きがある」との意味が込められており、また、月が中心から微妙にずれているのは「日本に敬意を表し、同じでは日本に失礼だから」と、わざと中心からはずしたとの事です。
パラオの人々は、「日本軍は私たちを、命に代えて守ってくれた」との感謝の気持ち、そして、「強力な米軍と戦った日本人の勇敢さと純粋さ」に敬意を抱き、「英霊たちは勇気と国を想う心があれば、アメリカよりも強くなれることを教えて死んだのだ」と、今でも日本を敬っています。
「私達は、国旗の選択に相当苦労しました。
大募者は悉く各島の人々であり、
それぞれの旗にパラオの歴史と伝統がこめられていた。
だから
選考委員は真剣であった。選考に日数をかけた。
でも、最終的にこの旗に決まったのは、
日本の旗に一番似ていたので最大の人気が集まった。
日の丸の部分を黄色にしたのは、月を現す。
周囲の青地は海を意味する。月は太陽が出ないと輝くことはできない。
つまり月は太陽によって 支えられ、月としての生命を持つ。
太陽とは日本のことである。
海に囲まれたパラオという国は
日本の太陽の反射によって輝かねば生きられないのである。
我々はまた、戦争中に、日の丸を掲げて強大な米軍と交戦した
日本軍将兵の勇敢さと純粋さに大きな魅力と尊敬を捧げている。
一万に及ぶ英霊たちは私達に勇気と国を想う心があれば、
アメリカよりも強くなれることを 教えて死んだのである」
参考
ペリリュー島のサクラと神社
ペリリューの戦い(ウィキペディア)
博士の独り言
ねずきちのひとりごと
近野滋之・民族主義者の警鐘
日本パラオ協会
一燈照隅
Youtube日本とパラオ
60秒でわかるパラオ
麻生総理とパラオ大統領
※※※
2月から書こうとして書けなかった「パラオとの魂の絆」でした。
3月には、未曾有の地震と放射能汚染が続き、やっと本日、記事にできました。
戦後の日本人は、こうした先人の事をあまりにも知らなすぎました。
GHQがどうのなどの事もありますが、やはり戦後道徳といいますか
日本人の精神性を軽んじてきた事が悔やまれますね。
今一番欲しいのは、こうした高い精神性だと思います。
地球から人類への警鐘の真っ只中にいる我々に
必要な真の心、魂のこもった行いを教えてくれます先人達に
感謝の気持ちだけじゃなく、今こそ一人一人が持つべき覚悟の
ように思います。
今だからこそ。
かたくり
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